昨日、別のルール
法律に触れる場合の
バレるバレないの要素が絡むと
資本主義経済の仕組みは
非常に複雑になり
先鋭化を阻むと
書いたのですが
ちょっと例が極端なので
別の例を書こうと思った。
要は、資本の交換には
必ず相手が居て
自分が得するように
がんばったら相手は損をするわけです。
これ、当たり前の話なんだけど
意外と、日本では
この辺が上手に粉飾されて
身近に感じることが出来ない。
例えば、アメリカで
バーをやってる人がいる。
そこに何度も通ってれば
店主とは仲良くなり
少しでも安く飲みたいと考えても
そこは店主の生活もあるから
ギリギリまで追い込むのが
難しくなる。
いや、そもそも
取引とは相手のある話なので
お互いのことを考えて
落とし所を考えたら
あんまり極端な取引は無理なんですよ。
でもね、今の日本。
この取引の相手が
人間じゃないわけです。
厳密に言うと
人間じゃなくて、企業体であったり
団体であったり、何かの象徴と捉えて
具体的な 人 をイメージするものじゃない。
よくネットでサービスとかの不備を叩いてる人を
見かけるじゃないですか。
もう、あらゆる人格否定みたいな。
叩きのめしてやるぞ!
そういう意思を強く感じるやりとり。
そういうのって
相手を、自分と同じ人間だと
認識してないから可能なんですよ。
なにかしらに抽象化して
人格と切り離す。
例えば、YouTuberで良く
ひどい書き込みに萎えて
辞めていく人がいる。
書いてる側は
その動画投稿しているのが
人である認識がかなり希薄だと思うんですよね。
実際に凹んでる様子を
動画に出されてもピンと来ない。
そして、それに対して
多くの人間は疑問を抱かない。
資本主義も終盤の
成熟期にある、現在の日本は
サービス提供サイドは人間じゃない。
人の集団でもない。
ただ、そこにある概念。
そこまで行き着いている。
なので、
いくらでも
それに対して正義をぶつける自分を
許せるわけです。
相手は概念なので、中の人は居ないし
実際の中の人が生活に困る様を見ないで済む。
そして、これが、資本主義経済社会を
先鋭化させている。
ありがとうございます!